May 16, 2012

2004/9/2 断章

倒錯的な性格ではないから、自殺する人を勝者だとは考えない。それでも世界には偉人にも自殺する人はあり、日本に至っては自死の美学もある。人はなぜ自らを滅するのだろう。第二次世界大戦で死んだ人が日本人で三百万人余りあるというが、それは丁度百年で自殺する人と同じであるらしい。つまりは日常も、百年をかけて緩やかな戦争をしているようなものである。

三島由紀夫、ロラン・バルト、川端康成、ミッシェル・フーコー、ジル・ドルーズ。自殺した文学者は多い。増大する自我の圧力が、存在する力を押し潰してしまうのだろうか。政治的な圧力で死ぬものもいるし、経済的な理由で死ぬものもある。しかし多くの場合、個人にとっての自殺は、自意識の消失点なのではないだろうかと、私は想像する。
過酷な土地に生きるものが常に存在する力を問われているとしたら、安寧のなかに生きる者は蓋し存在する力を問われない。想像する余力のある生活は羨望されると同時に、ある種の生き地獄のはじまりである。存在する力が限りなく弱いなら、自意識を知った瞬間に死んでしまうだろう。

自意識とは、限りない孤独の別名である。そこが思索の出発点であり、見えない他者を探していくプロセスのはじまりである。私はその他の誰でもなく、物でもなく、唯ここにあることの触覚である。その地点に留まり、生きていくことは難しい。
社会的なゲームのなかに身を投じていくことで私たちはひとつのピースとなり、大きな総体を築いていく物となり、自意識を忘れていく。また貨幣の力を信じている人が、自意識に潰されることはない。貨幣を稼いでいく限りは、正しい存在である。

自意識は魔物であり、甘美な誇りという毒で身体を蝕んでいく。時折魔物は身体を去り、やがて舞い戻る。常に働き、身体の力を高めて自意識を追い払うことこそ、唯一の対症法である。働かざるもの、食うべからずとは禅の言葉であるが、そういう暮らしに魔物は存在しない。怠惰、強欲、等、キリスト教のいう七つの大罪こそは、まさに魔物の好物である。

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April 17, 2012

ロンドン滞在にて日本の現況を憂う。

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5−6年振りにロンドンに滞在している。

街を歩いていて思うのは、勿論ユーロ圏ではないけれど、欧州経済危機に日本がIMFに金を出すなんてバタバタしているのが無縁に感じる程、別の次元で好況のような気がする。同じような感覚は昨年の韓国でも感じた。日本の現状と一体何がちがうのだろうかと思うと、それは「グローバル」であるという事実だ。

金持ちのインド人、アラブ人が街に溢れ、白人の若者がシュラフに包まりホームレスになっている現実を、国民が普通に受け入れるということだ。ナイトブリッジの高級コンドミニアムが1500平米で100億円以上の価格であったり、5億円の不動産が普通にある都市だ。日本人だと格差だとか叫んでしまい、まったく感情的な閉塞感に陥るのではないだろうか。日本のジャーナリズムに問題があるのかもしれない。

国、人種、宗教に関わらず、機会の平等があり、法人の自由が保障されている都市や国でないと、もはや「グローバル」はならないだろう。少なくとも言語という障壁が日本にはあるのだ。

そこを国家が戦略的に使う事が出来れば(国益となる人材、富裕層の外国人は受け入れる等、企業の法人税をさげる等)消費税をあげたとしても,日本はもっと活況になり得るだろう。

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October 31, 2011

原子力発電の事故、状況、様々なコミットメント。

3月11日以降の6ヶ月間、特に東日本に住まう人々には、生活と潜在するリスクについて深く、また人生のなかにおける自分の立ち位置を検証する時間だったと思う。仕事、家族、生活等、1980年代以降に発展したメディア主導型の消費謳歌社会が、決定的な問い直しを受けた。その最大の理由は、言うまでもなく『福島第一原発事故』だった。

地震当初は、津波の被災エリアの決定的なダメージから、しばらくは原発の話はプライオリティに語ることが難しかった。が、時間が経つにつれ、さまざまな側面が露呈し、特に情報の開示については、電力村=電力マフィアと称される体質が糾弾された。しかし同様の体質は、日本中の何処にでも存在しているし、また鏡の中の自分に腹をたてるような、気持ち悪さがそこにある。まったくの外部にいる日本人はないし、あくまで内部からの闘争を行わなくては嘘である。

私は6月某日に、遠藤 哲也 (元IAEA理事会議長/元原子力委員会委員長代理)の講演を聞いてきた。元国連の明石 康氏が主催された原発問題を考察するイベントの「福島原発事故の影響~原発事故に国境なし」と題した講演だった。遠藤氏の講演は、まだ6月という異様な状況が現在ほども冷めやらない時だったこともあり、率直に語っていたという印象だった。あくまで外務省出身ということもあり、コミュニケーションの問題として原発を語り、技術的な問題については、専門家ではないが、中核にいた人間ならではの知見を感じた。

●原子力の問題は、天災で起きたが、その後の対応を含めては人災でもある。特に組織の在り方。
●10万マイクロシーベルト以下の低量放射線での人体の影響は、諸説をさまざまな立場の専門家(医師、技術者等)から聞いてきたが、悪いともいいともいえない。数字化=科学的な根拠がない。
●原子力の見直しは議論すべきだが、エネルギーの安全保障上の問題は重要な問題だ。

遠藤氏のポイントは、私がその後様々な専門家、関係者、つまり原子力を巡る様々なプレイヤーを理解していく足場となった。

人体への影響がどうなるかという議論については、今後の臨床的なデータの蓄積もあるし、内部被ばくを軽減するための人的及び官民一体の努力次第であるので、未だわからない話だ。但し、結局は責任のなすり合いにより現実的に存在している危機(特に高放射線の地域)にて、対策の不備は否めない。今なお続いている人災の側面からの可能性のある健康被害(特に放射能の受容性の高い子供たち)については緊急の対策をするべきである。そういう意味で、以下の課題解決は急務だ。

●潜在する危機に対するアクション(児童の疎開等)
●現在稼働または停止している原子力発電所における大規模事故のシュミレーション
●閉鎖している炭鉱の再稼働を含め、エネルギー安全保障体制の再構築

様々な利権を含む私たちの問題である側面がある。すべてを単純な経済状況とのトレードオフだけではなく、現在の政治がしなくてはならないのは、未来志向の課題解決だ。少なくとも半世紀のスパンの計画をつくるべきだ。民主党とか、自民党の次元ではなく、私たち全てがコミットメントするべき問題だという状況であることは、少なくとも東日本の人間は骨身に沁みている。

技術を捨てるという議論はあり得ない。必要が有る限り技術を人が抹消することはできない。核というパンドラの箱は既に開いてから半世紀以上継続している現実であり、冷戦後の私たちも莫大なコストを払い続けるという事態は不変だ。全廃を求めるだけの反原発運動はその意味では空論であり、いかに私たちがその技術とのスタンスを決定するための議論と、リーダーが不可欠なのだ。

兎に角、目を瞑る時ではない。


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