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April 2005

April 26, 2005

「時計」を欲しくなってしまう私

tokei
バーゼルの展示会から友達が帰国し、「新作の時計が良かったよ」と言った。僕は機械式時計の新作が出るたびに気になってしまう。我ながら、なぜだろうと不思議になってしまう。
機能としての時計は、クォーツにはじまり、デジタル、電波時計と精度は飛躍的に高まっている。しかも機能を追及した商品は価格が安い。考えてみると、二十年ほど前に機械式時計を欲しがる人は未だ少なく、本当に値が上がってきたのは二十一世紀になってからだと思う。普段の時間は、携帯電話、パソコンで十分であるし、所有欲をそそる何かがなくては「時計」は存在できない。
スイス時計業界が機械式時計の復権を願って、80年代にSWATCHのプロジェクトをはじめ、それから機械時計はファッションとして一般化していく。現在では老舗ブランドだけでなく、新しいブランドが高級品として機械時計の評価を得、もはや一部の好事家の世界ではなくなっています。ルイ・ヴィトン、グッチ等、ファッションブランドが本格的に「時計」ビジネスを始めたのも、それを加速化させているのでしょう。
欧州のアンティークショップで買ったのロレックス、ゼニス等、何個も持っているのですが、それでも欲は尽きない。そういう物欲を恐ろしいと思いながらも、ベダ社のNo.8という時計が気になっています。1996年に設立されたメーカーで、グッチのグループにいるそうです。

それにしても、自分が好きになるデザインの傾向がいつも一緒なんですよね。<tokyotaro>


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April 19, 2005

李朝の白磁と楡の木のお膳

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韓国で買ってきた楡(ニレ)の木のお膳に、家にある雑器を並べてみた。
ぐいのみは李朝のもので、麻布十番にあった「うちだ」<今は八丁堀にある>で買った。繕いの跡があるのが、気持ちよいぐいのみで、浄法寺の朱塗りの片口とともに愛用している。残りは、現在のものである。残りは、笠間で買った茶碗と、李朝の陶器を本歌取りして作っている高仲健一氏の平皿である。

食事をするたび目で楽しむというほど余裕のある生活ではないから、食器に拘るのも中途半端になってしまう。それでも普段も惣菜を買って気を使わないでプラスチックの皿で食べるより、こういう簡単な手間で心が豊かに感じられることは大切だと思う。

私は骨董を買って眺めるような趣味はいまのところない。じっくり使ってみる方がいいと思う。数世紀の時間を感じながら、そういう骨董で酒を飲む時は幸せである。

高価な骨董を買うのは骨が折れる。値段が妥当なのか等、余計な邪念が入ってしまう。目で見て楽しいと思って買う値段-私にとっては片手くらいを目安にしている。

<tokyotaro>


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April 15, 2005

バルセロナ・チェアと猫

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『ディテールに神は宿る』というのは、建築家ミース・ファン・デル・ローエ氏の名言である。
バルセロナに滞在した時、昼に空いた時間で行かなくてはとタクシーに乗り、ミースの記念碑的作品へと向かった。その建物は、カタルーニャ美術館の敷地の斜面にある。元来、1929年のバルセロナ万国博覧会のドイツ館として建てられたパビリオンで、当時の建物は会期の終了と共に撤去されてしまったけれども、1986年、ミース財団によって同じ場所に復元されたそうだ。

僕は、NYのシーグラムビル、シカゴのアパートメント等、スケールが大きなものに足を運んだことはあるけれど、小さなスケールの建築物ははじめてだった。しかもここは、有名なバルセロナチェアの起源となる建築作品である。

建築家がデザインした家具は、その対象となる建築空間にフィットするように設計される。それでも名作と呼ばれるようになる家具は、ユニバーサルなデザインとして世界に普及していく。そういう意味でも、ディテールのなかに真髄のあるミースの家具の現場を知りたかった。そこには完璧な調和があるだろうと、期待していた。

その建築は、ミニマリズム建築の極地という程、素晴らしいものだった。僕は、バルセロナの陽光のなかに佇む建築物に崇高さを感じた。設計自体の構成美の素晴らしさもさることながら、石とガラスが織り成す建築物そのものが、質感として素晴らしいものだった。

現代のミニマリズム建築の旗手であるジョン・ポーソン氏の作品には、このミースの建築物を翻案したものがある。それでもこのテクスチャの素晴らしさは翻案できなかった。

ミニマルであることと、リッチであることのバランスに対する解答とは、ここにあるのだろうと思う。ゴージャスなミニマリズムという地平があって、そこにはローコストでは達成できない境地がある。

現在、その建物に住んでいるのは、一匹の猫である。 

<tokyotaro>


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April 12, 2005

ピニンファリーナと自動車の夢

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先日、ピニンファリーナのチーフデザイナーである日本人のドキュメンタリーを見た。
チーフデザイナーの奥山氏は、山形県の出身であり、渡米してカーデザインの専門家となり、GMなどを経てイタリアのカロッツェリアであるピニンファリーナのチーフデザイナーとなった男である。
イタリアでは、自動車のデザインをデザイン工房に外注するのが、昔からの慣例だったそうである。自動車の文化が馬車から連綿と続いている欧州にとって、洋服の仕立て屋のように自動車の外観を発注するの当然だったのかもしれない。そういう工房にとってデザイン=意匠とは、商品のパッケージングというレベルではなく、美術史の創出(アート)の域に達している。

現代の自動車にとっては、意匠は魅力的な外観だけではなく、テクノロジーと様々な機能(エコロジー的な社会的機能も含めて)の表現となっている。そのために存在する様々なテクノロジーに関するコード(約束事)が、デザイナーの自由な発想を縛りつけている。想像力はその縛りを破ろうとし、しかし高次元で様々なコードとバランスをとっていくかという命題に挑戦しなくてはならない。

そのドキュメンタリーでは、あるデザイナーが既成概念とコードへの縛りつけで葛藤していることに対し、奥山氏の熱意がそれを解放していくプロセスを取材していた。
一流の工房は、感性とテクノロジーのはざまで葛藤しているのだと私は感心した。感性を刺激できない自動車には魅力が薄い。しかし世界には、感性を失った自動車が溢れてしまい、もはや家電のようになっている。
マーケティングの用語で、エモーショナルベネフィット(感性的な価値)という言葉が言われて久しいけれども、それは本来備えていたものが、テクノロジー(経営、生産)の発達の影で多くの商品から失われつつあるからだろうと思う。

奥山氏は言う「自動車に夢を戻したい」と。でもそれは困難な道であり、時代は自動車の家電化への道を突き進んでいる。
自動車が人間の「自由」のシンボルでから、完全なる「管理」のシンボルにならないために頑張って欲しい。

<tokyotaro>

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April 10, 2005

中国の反日デモと吉野家

吉野家は大変である。
TVをつけると、北京で群集が吉野家を取り囲んでいた。反日の矛先として企業も襲われているらしい。
それにしても吉野家は、米国とのBSE問題しかり、ちかごろ国際問題の矢面に立っている。そもそも創業時、牛を喰うという欧米の食文化から派生しているのだから、当時は牛を大きな文化的な衝突があったことが想像に難くない。創業から先鋒だっただなと、そんなことを感じながら、時差ぼけ直らぬままTVを観ていた。

それから何人かの中国人が卵を日本大使館に投げる映像が放送された。中国では飢えている人も農村にいると聞くから、これはどういうことかと思った。日本では食べ物を投げるようなことはしないし、デモの女性は笑いながら投げている。

これはなんなんだろう。少なくともデモの参加者にとっては、日頃のストレスの捌け口になっているようで、みんな生き生きして、投げるとすっきりとしているようだった。
僕が許せないなと思うのは、中国は自国の飢えている人を尻目に、都会では卵も投げてしまう。そんなエネルギーがあるなら、自国の人を助けたらどうだろうかと思う。共産主義国家の人民とは思われない。もはや北朝鮮の方がストレートで、正直じゃないだろうか。

こういう茶番で誰が得をするのかと考えると、先ずやっているデモ隊の欲求不満解消と、放送局のネタぐらいには意味があるかもしれない。中国国内の急激な経済所得の格差による階層化、社会の変貌によるフラストレーションは高まっているにちがいない。
学生は社会のリトマス試験紙のようなものだ。でも茶番から何が出るか考えてはいないだろう。

結局東アジアの緊張は、欧米の武器商人たちの、「不安定化」による市場の創出に繋がるだけなのだから、頭冷やした方がいいでしょうね。そう、反応すればするほど、彼らの思う壺にはまっていくんです。しかも状況は清朝末期の頃のパロディのようですね。

牛を買ったら、おまけにミサイルも買わされたよ、なんて洒落にもなりません。

<tokyotaro>

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April 05, 2005

バルセロナとヒップなホテル

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4月2日からバルセロナに滞在している。夜は寒く、昼は18℃くらいまでになる。

私にとっては、12年前に南仏から彫刻家の友達と二人で電車で国境を越えてやって来たバルセロナしか知らなかったので、やはり世界は変貌しているのだなと痛感する。スターバックス等のファーストフードの記憶がなかったし、その当時の欧州の先進国と比較すると、洗練されていなかった感があったのが嘘のようだ。その当時は、街のクラブに行っても、鳴っているのはスペインの歌謡曲であり、アメリカ等、外国の音楽の情報なんて一般的に知らなかったのだ。今ではとても洗練され、軽くなっている。そう昔のバルセロナは濃い感じがした。

建築・都市の外観は東京のようには変化しない。変化したのはそこに生活する人の情報の質である。

建築では、修復されたミースの設計したバルセロナ・パビリオン、ガウディの建築等、昔から素晴らしい名作が満ちている。そのバルセロナにも、イアン・シュレーガーのホテルやWに代表されるヒップなホテルが登場している。

Hote ommは、バーラウンジ・レストランともにコンテンポラリーな格好良さがあるホテルで、そのメインダイニングのMOOは2ツ星です。こういう感覚のホテルは、NY、London、Paris、そしてバルセロナにもあるけど、東京にはありません。目黒のクラスカはいい線なんでしょうけど、あんな郊外にあってはいけません。それに若者ばかりが流行で来ている感じもだめです。東京では表参道にあるようでなくては、そういうホテルの仲間ではないですね。


<tokyotaro>

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April 01, 2005

Leeum美術館とレム・コールハース

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レム・コールハース氏は世界的な現代建築家である。
『錯乱のニューヨーク』という著書で、素晴らしい都市論を披露している。ニューヨークという都市が一枚の岩盤からはじまり、何もない土地にグリッド(桝目)を当てはめ、そこに過去の土地の様相の記憶を留める広大なセントラルパークが計画される。歴史の読解力と、ユニークな都市論の視点。 現代建築を理解する必携の本である。

そのコールハース氏の建築を観たいと思ったら、福岡に集合住宅もあるけれど中には入れない。だからソウルのLeeum美術館がおすすめだ。

この美術館には、日本では電通ビルを設計した、ジャンヌーベル氏とマリオ・ボッタ氏の建築もあり、国際的にも面白い巨匠たちの共作である。

日本でも、ジャン・ヌーベル氏がグッゲンハイムを建築する計画があったそうだが、実現していない。韓国企業のサムスンのように気概のある施主が現れてくれないだろうか。

<tokyotaro>

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