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September 2005

September 27, 2005

サーフトリップ:東京→鹿嶋→日立

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台風18号が来る。

都内から鹿嶋へ高速道路を走ると、一時間半で鹿島灘へ出た。

鹿嶋は古来より、風土記にも記されている土地である。鹿島灘は太平洋に面し、荒々しい海が一面に拡がっている。空は果てしなく、水平線の果てからスウェルがやってくる。ちょうど台風の影響で普段よりも海は荒れていた。
サーフィンに良いかたちの波ではなかった。潮来から国道51号を北上すると、旭村に至る。鹿島灘を望む眺望は素晴らしく、気持ちの良い場所である。かつてヴィラトレディオという名の瀟洒なホテルがあったそうだが、現在は営業していない。やがて塩が満ちた海風に朽ち、廃墟となってしまうだろう。海岸に降りると、3-4人のサーファーが海に入っていた。オンショアの風が強く、ちょっと入る気持ちにはならなかった。確かに、ここにホテルがあっても、遁世を望む人しか来ないかもしれない。

そこから大洗へ北上。30分程度の道のりである。大洗のサンビーチで、買ったばかりのショートボードに乗った。いつも乗っているロングよりも1m以上短いので、自転車から一輪車に乗り換えたような感覚である。荒い波に揉まれながらも、ショートボードを楽しんだ。

翌日、大洗から日立へ北上する。距離にして40kmくらい。
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日立は工場もあるので、海岸の状況が想像できなかった。が、港の横にある浜は、とても綺麗だった。そこから丘に昇ると、日立の白い灯台が陽光に輝いている。海見ると、波がアウトで割れていた。潮が速いというので私は海には入らなかった。数人が浜から500mはアウトへ出て行くのを見たが、ガイドによると満ちると戻れなくなるらしい。
波がいいのに誰も入らないのは、なぜ??と思う。湘南ならショッカー軍団のように黒山になるだろう。

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その帰り、大洗海岸で入った。すると、見た目よりも潮の力が強く,辛かった。日立の潮の流れを思うと、自分の力量では難しかっただろう。


海岸を巡って旅をしてみると、東京から自動車で二時間圏内であっても、素晴らしい自然は残っているのだなと実感した。

<tokyotaro>

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September 21, 2005

株という魔物とデイ・トレーディング

dost
『賭博者』というドストエフスキーの小説に克明に書かれているように、人は賭け事の熱気に翻弄されて我を失ってしまう。
公式には賭場は禁止されているが、さまざまな金融商品とネット売買の進歩に伴って、株式市場はヴァーチャルな賭場の様相を呈している。証券会社が提供するネットツールの点滅する気配値をにらみながら、目と指先に神経を集中する。その指先の向こう側では、白熱する市場がネットとともに連結し、その波動が肉体を蝕む。
特に、信用で売り・買いの瞬間の恍惚感と、身投げをするような高揚感を感じる時が恐ろしい。

白熱している株で、一瞬で10%以上も値が変動する時は、まるでジェットコースターが落ちていく感覚でしかない。先週からの三菱関連株の乱高下は、まさにその熱狂を感じる場だった。

百万円ももとでがあるなら、数十万から数百万の金を一瞬で儲けられるし、また失う。
追証に追われて、キャッシングをするものもいるだろう。掲示板では、数千万の損失を出した個人の書き込みもあった。

怖いと思うと、平気で人は暴走する。まるでチキン・ゲームのように誰が先に降りるのかを見極める。

と言う私も、落ちていく株価を眺めながら、頭が白くなり、指に電気が走った。

儲けるためだけでなく、この高揚感を感じるために投機している者も少なくないだろう。

そんなことを思いながら、己の臆病さに腹が立ち、今晩も酒を煽るしかない。<tokyotaro>


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September 17, 2005

9月11日選挙、あるいは「お上は死んだ」

選挙には足を運んでみた。
選挙に行ったことがないと豪語しながらも堀江氏が出馬した件でも明らかなように、今回の選挙の争点は明確だった。郵政民営化により、ようやく日本が明治維新後から続く、中央集権主義から脱却していくということだ。つまりは「お上は死んだ」、正確には死につつあるのである。

団塊の方々は、いまでも「お上」が欲しいらしい。筑紫哲也氏を典型とする旧左翼系のジャーナリストにとっては、批判する対象の消失であり、いつまでも「お上」の監視がジャーナリズムの仕事だと、いつまでも国民=大衆と愚弄している。自分たちのような東大を出た頭の良い人が一生懸命監視しなくては、社会矛盾を大衆は見つけられないと信じている。でも私は、彼らのニュースほど主観に満ちた情報操作はないと感じる。客観を装い、誰もがうなずかなくてはいけないような踏み絵を使い、自分たちを正当化しているように思う。

十年前に東欧の社会主義国が崩壊したとき、東欧の諸国にメディアの自由があっただろうか。彼らは国を超えて飛んでくるラジオから情報を得ていた。現在の北朝鮮もしかりである。情報を遮断する権力など、現代の社会には不可能なのである。しかも今はインターネットも存在している。

現代において、国を誰が持っているかは明確だろう。それはいうまでもなく国民である。社会資本の大方は国民にある。別に聡明な先導者が、搾取された資本を奪回するための策を練る必要もなく、みんなが資本を持っている状況である。そして今回の選挙では、もっと国の資本を開放するということである。

それなのに、旧左翼系の方々はなぜ反対するか。それは彼らこそ「お上」を信じているからだ。

19世紀末、ニーチェは「神は死んだ」と書いた。教会の支配が強い時代だったからこそ、その神の弱体化を意識できたのである。しかし、誰も信じなくなったら、そんなことを言う必要がなくなる。「それってどういう意味」とメッセージが空虚化していく。

私は中央集権的な国家など必要ないと思う。もし自民党が翻ってそういう方向になるなら、それは問題だと思う。しかし、本当だったら国の資本を開放するなんてことはしない。

夏目漱石以来問い詰められきた近代という問題について、ようやく現実的な解答が出てくるのかもしれない。
個人は個人で苦しみ死ぬかもしれない。でも共同体の幻想に逃げることはもう不可能であると社会現象が、(現在の自殺率の増加しかり、犯罪の特殊化しかり)雄弁に語っている。

いまもナロードニキを夢見る老人たちと、借金の話はしたくない。

<tokyotaro>


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