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September 2006

September 30, 2006

短編小説:『性物画』

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その穴は白かった。崖の岩肌が脆く崩れ、私は足場を失った。底の方へと落ちていく最中、私の意識が次第に妙な具合に明確になり、恐ろしいとか死ぬのではないかという不安の彼方に妙な希望を感じていた。私の存在は、その肉体の周りに纏わりついている空間と時間の枠組みを超えてしまっているかのようだった。頭蓋骨が砕ける音が耳に響いた瞬間、永劫の責め苦と至福の映像が脳裏を去来した。

 私は名前を忘れてしまった。私は意識を回復したと同時、肉体の自由を完全に失っていることを悟った。目が覚めると眩い光が網膜を突き刺し、喋ることも動くこともできない身を認識した。私は完璧な不具者になったらしい。が、肉体の自由を失ったことが悲しいという反射的な感想を感じるには、私の脳は少々壊れすぎてしまったのかも知れない。未だない位、冷静な私がそこにいるのだった。
窓の外には春風が吹き荒れていた。その硝子を叩く音が祝福の歌のようだった。私はじっと死の到来を待っていた。それは遠い雷鳴のように現実感のない危機だった。
針が私の右腕に突き刺さっている。一匹の蝿が窓硝子の傍に惑っている。何処に行こうとしているのだろうか、それとも何処にも行けないのか。リノリウムの床が日光を受けて輝き、薄汚れた天井に照り返していた。生き物のように日の痕跡は蠢いている。
喉を感じてみたが、その感触は何もない空洞のようだった。私は喋ることができない。一日はひどく緩やかに流れる河のようだった。背骨が何かに巣食われているような感官に幾度も襲われて大声を張りあげたが、辺りは完璧な静寂に包まれていた。薄く、そして完璧なベールが私と現実世界との間には張り巡らされている。

 脳が次第に現実の時間から私を解放していくのか、私は過去に向かって世界が広がるのを感じていた。私の寝ているベッドが、次第にかつて子供の頃寝ていたベッドになり、空を流れる雲が、かつて私が虫取り網を持って駆け巡った野原の雲になった。私は、父親に殴られて痛んだ心を抱えて走り抜けた、あの野原に立っていた。
凧の群れが青空に舞っている。雲の切れ端が硝子の先端の鋭さで空に突き刺さっている。私はひとりだった。郊外の空き地では、錆びた立て看板が客を待っていた。
風が吹いてきた。私は半ズボンで来た事を後悔した。ススキの穂が私の素足を叩いた。瞳には寒い青空だけが映っていた。ドクダミの匂いが肌に沁み込んだ。ショウリョウバッタが背中に子供を乗せて歩いている。泥棒草の実がからだじゅうに纏わりつき、捨てられた猫たちが鳴いている。僕も泣いていた。僕は捨てられた猫の身になり、人を呪った。青空は果てのない青だった。セスナ機が東から飛んできて、大きな空を叩いていた。バタバタと音が世界中に響いていた。僕は空を見あげていた。僕の小さな手を空に向けると、空は手に収まらない程広かった。途方もなく広い。段々と僕の悲しみは空に吸い込まれていってしまい、すっとした心が残った。ラムネの味が口に広がった。僕はラムネのキャンディを舐めていたことを思い出した。
誰もいない公園。独りでに揺れるブランコ。その軋む音が空に響いている。

 周囲は真っ暗闇だった。医療機械のスイッチの光だけが点滅している。私はその光を感じていた。小さな弱い光であるのだが、私にとっては太陽よりも眩しい光だった。
父は未だ八歳の私に問うた「お前の人生はどう転んでもお前の人生だ。どう生きるつもりなのかを考えろ」と。私はその答えが未だ分からない。何十年も答えることのできない父の問いを心に刻み生きてきた。そして私は穴に落ち、此処に至る。
空虚な、余りにも空虚な存在に成り下がったのだ。私はカフカの『家父の心配』に登場するオドラデグそのものだった。はたして死ぬことができるのだろうか?死ぬものはみな、生きている間に目的を持ち、だからこそあくせくして、いのちをすりへらす。オドラデグはそうではない。生き物でもなく、物でもない存在…私は涙を忘れてしまったらしい。

 昼が去り、夜が訪れる。
 暗闇のなかで忘れていた事柄が洪水となり、私の記憶は今の私に舞い戻ってくる。今の私は何もない空虚な身体であり、記憶はより強烈に私の脳髄を占拠してしまう。
 
 私が最後に海に行ったのは、秋だった。
 閑散とした観光道路を、女とオープンカーで走っていた。イタリア製のオープンカーが奏でる排気音を響かせ、海外沿いの道を北に向かった。東北は冬がキツイと女が呟いた。
 女は肌が痛むのを極度に気にしていた。寧ろ神経症に近かった。太陽の光を恐れ、サングラスとスカーフで顔全体を覆っていた。その癖、オープンカーには乗りたいと云っている。私には話を合わせて引っ込みがつかなくなり乗っているのかと思ったが、別段そうでもないような顔をしている。最大限に日の光を避ける為、トンネルの多い道を走っていた。時折地下水が頭上より滴り、顔を打った。冷たいと女が叫び、私は笑った。私はどうしてこの女と此処にいるのか分からなかった。涼しい風に髪が舞い、遠くの島々が書割の風景のように景色に張りついている。透明な午後だった。私は自分の目的を見失っていた。女を抱きたいのか、それとも何かに向かって走りたいのか。酷いと女が叫んだ。見ると、路面には一匹の鼬が轢死していた。
「いつの日かあたしたちもああいう目になるのかしら」
「わからない。明日か、それとも五十年先なのか」
「そういう危うさって大切な感覚じゃない」
「普段はすっかり忘れてしまっているけどね…」
ブルーの空が幾重にも重なり合い、透明な秋の空が広がっている。私たちは走り抜けている。女は北の実家へと戻り、二度と東京へは戻らないと呟いた。
「あたしのが前に勤めていたクラブの娘の話なんだけどね、あたしが店を辞める半年前に失踪してしまって見つからないのよ。いつも突然いなくなる娘は多いんだけど、彼女の場合は、同じ店に勤める美奈ちゃんていう娘と同居していたから…。美奈ちゃんがいうには、身の回りの物がすべて朝出かけた通りに残っているし、化粧品からパジャマまで普段通りにちらかっているし、荷物をまとめて出て行った形跡もないらしいのよ。渋谷にでも服でも買いに出かけたのかなって思って気にもしないでいたらしいの。でも次の夜になっても帰らないから変だと思って、携帯に電話をしたら彼女の部屋で音がしたんだって。彼女の部屋を覗いたらハンドバックが残っていて、携帯が鳴っていたそうなのよ。しかも財布も残っているし、銀行のカードも現金もあるし、普段使っていた口紅もコンパクトも入っていたそうなの。それで怖くなったんだって。だって化粧も直さないで歩き回っている娘じゃないし、それに現金を剥き出しで持って出かけるなんて想像できないでしょ。それで美奈ちゃんはお店のマネージャーに連絡したんだって。でね、それで履歴書にある彼女の実家にマネージャーが電話を入れたらしいんだけど、電話は現在使われておりませんとメッセージが繰り返しているし、住所から地図を調べたら、そこは福島県***市の郊外にある発電所だったそうなの。それで美奈ちゃんは近所の警察に届を出しに行ったらしいんだけど、カードの名前も偽名だったらしく、失踪届にもならなかったんだって。夜逃げ同然で暮らしている人も多いんですよ、あなたが何か被害にあっている可能性はないですかと警察は言ったそうなの。で、美奈ちゃんは怖くなって自分の保険証とか印鑑とかを調べたけど全部あるし、ほっとしたらしい。でもひとつなくなっているものに気がついたんだって…」
 女が黙った。
「臍の緒の入った巾着…美奈ちゃんの亡くなったお母さんに貰ったお守りで、出生書といっしょになっていたものらしいの…しかも美奈ちゃんお母さんの指の遺骨も一緒にしていたらしくて」
「気味が悪いね、人のそんなものを盗むなんて」
 海岸沿いの岩肌がぎらりと輝き、暗闇のトンネルのなかへと私たち自動車は入った。鍾乳石のようなのたくったコンクリートの天井から地下水が滴り、フロントガラスで弾け飛んだ。
「美奈ちゃん、それから少し気が変になって、今じゃ神経科に通院しているのよ。美奈ちゃん、なんだか自分が盗まれてしまったみたいだと泣いていたわ」
 時折強い風が日本海から吹きつける。トンネルの暗闇を出、一面の青空が現れた瞬間、女が巻いていたシルクのスカーフが風に吹き上げられて飛んでいった。ひらひらと舞い上がりながら、バックミラーから消えてしまった。
「ねえ戻ってよ、ねえ」
「…」
  
 太陽が昇っていた。
 看護婦が私の股間を洗っている。私のペニスはしっかりと立っている。女はピンセットを用いてガーゼでペニスを洗浄している。その光景は妙であるが、医学的な見地からは正しいのだろう。だがそれを悪ではないと言えるのだろうか。注射が一本打たれる。私が腐らない為なのだろうか。私は生鮮食料品だ。腐らない為に生きている。看護婦は腐らせない為に努力している。喉元に流動食が流れる。生きるための装置、だがその先に何があるのだろう。私は小さな汚物工場であり、その存在は人工世界の規則に遵守している。
 私はその世界のどの場所に登録されているのだろう。その登録は有効なのだろうか、それとも無効なのだろうか。私の存在は、法的な監視下のもとにある場所を与えられている間は処分されないだろう。が、その範囲を少しでも逸脱してしまうと、私は人間から動物にでも、または物体にでも格下げされてしまうだろう。薬物の実験台になりさがり、糞尿を垂れ流しながらも意識なく死にゆく存在にもなるし、切り刻まれて医大生の為の標本にもなる。その境界線は曖昧なものであると、私は確信した。そう、今の私にここまでの明晰な思考があるなど、誰も思ってはない。私はかって人間と呼ばれた存在のなれの果てなのである。
 私は顔を忘れてしまった。顔の記憶は朧げな輪郭、目鼻、口、しかしながら自分の顔という明晰な像を思い出すことはできない。顔の断片、瞳の光彩、目元の黒子。私の隆起した鼻の側面にある脂肪の残滓。それらは覚えているが、私の顔の総体を覚えていない。昔母親が綺麗なハンカチを鞄から取り出し、私が垂れ流している鼻を拭いてくれた。光が空から降り注ぐ午後の庭先だったか、それとも…。砂浜に掘られた穴に埋められていた。入道雲が輝く広大な青空。崩れる砂が顔に降る。子供たちの顔が穴から私を覗き込む。悪戯を愛し、人の不幸を軽快に楽しめる年頃の少年たち。肌が黒く、夏を体いっぱいに吸収していた子供たち。私は崩れる砂の、穴のそこに座っている。私はそのうち訪れるだろう大波を待っている。海が満ちて海水が注ぎむ時を。私は溺れ死ぬことを期待していた。青空の処刑台は幸福な地獄だった。
 私は目覚めると、青白い病室のなかにいた。いままで私は子供の自分を生きていたが、夢だったらしい。汗が毛穴から噴き出で、四肢が痺れてきた。これは回復の予兆なのだろうか。それともシシュポスの責め苦のように出口がないのだろうか。
 生の輪郭が朧げになっている。生とは意識のことなのだろうか。それとも現実に関与する力なのか。私は喋ることもなく、思うことで生を証明している。しかしそれが理性の所業であるとは確信できない。私は理性など私は持ち合わせていない。感情の郵便があて先不明になって、口から理をまとって出でるに過ぎない。私は必死に思考している。思考が果て、私が死んでしまわないために。思考が果てても、肉体が勝手に生き続けるのは地獄だ。それとも私は既に地獄にいて、傍から見たら勝手に生き続けている肉体でしかないのかもしれない。
 心臓の鼓動が耳に障った。目を開くと、海原が広がっていた。私は世界の果てに棲んでいる一つ目族を捜している。星の道筋を辿って私の船は闇の海原を進んでいた。一つ目族に捕らえられたオデュッセウスは名乗る「何者でもない=ウーシス」と。大いなる海原の洞窟に棲んでいる怪物たちの呼吸が耳に響く。名前はやっかいなものだ。肉体の外、心の外で勝手に生きている。金貸しも、誹謗者も名前を忘れてはくれない。私はオデュッセウスのような罠を仕掛けることはできなかった。私は病院の枕元にしっかり名前を貼られ、縛りつけられている。私は名前を忘れてしまったが…。目を潰された一つ目族の男に仲間が言う「誰でもないものに潰されたなら、ゼウスの所業にちがいない。あきらめろ」私は一冊の本を拾った。開くと、ゼウスは復讐の神であると書かれていた。
 闇が来た。私は目を瞑る。

 
 看護婦は監獄の看守のようだった。
 私に何も話し掛けないことで、偉大なる権力を保持していた。日に二回私の肛門に管を差込むと、ぞんざいに尻をタオルで拭く。私の性器は女の手に著しく反応していた。私は大きな女に抱かれていた昔を思い出した。私の家には北の漁村から出てきた若いお手伝いが住んでいた。病弱な母の代わりに、私の面倒を見ていてくれたのである。私を風呂で洗ってくれたその女性は、二倍以上の体躯の女だった。大きな女に包み込まれる快楽…以来、そこには決定的な愛があると信じている。今の私も看護婦である女に対して、決定的に私は無力であり、私は乱暴に扱われ、その状況が私に女を神聖化させる。
白衣の匂いを感じた。私は女の眼を見た。が、殆ど女は私を無視していた。
「・・・・・・・・」
 女がなにかを喋っているような気がしたが、私にはよく見えなかった。無論、何も聴こえない。朧げな女の輪郭が宙に浮かび、私は美しさに胸を痛めた。女は乱暴で、私は無力だった。その無力な私は、その女を渇望していた。性器は女の手を感じていた。だが私は生き物でもなく、物でもなかった。孤独で満ち足りていて、そして空虚だった。私は生きている…。

 
 残雪が踏み荒らされていた。私は飛行機で窓から眺めた空を想った。群青色の天空には大熊座が輝き、その下方に拡がる雲海には橙色の光の帯が連なっている。群青色、薄緑、薄黄色、橙色、赤、黒い灰色。何歩から私の人生は惑ったのだろう。踏みしめられた残雪が音を放つ。青い色が鳴った。夕暮れが虚空に流れる綿毛の軽やかさを思い起こさせ、肉体が歩くたび軽くなっていく。私は飛んでいた。舞っていた。時計が午後六時を指していた。私の首筋に痛みが走った。首筋で蠢く甲虫の足が刺さった。いや何かが血管に挿入された痛みだった。私は墜落した。一台の旧式の路面電車が来た。パンダグラフを直撃すると、屋根が破れて路面電車のなかに落ちた。そこには壊れた座席が並んでいた。破れた布地からバネが頭を出している。割れた運転席のガラスドア越しに一羽のカラスが私を凝視していた。路面電車は街を滑走していた。街は昭和三十年代の東京だった。灰色の日劇を横目に路面電車が走る。鳩の群れが空を埋め、急に到来した夜に群集は戸惑っていた。煙を吐き出す巨大なネオンの看板が屋上に輝いている。私は父の手を握り締め、都会の夜景をじっと眺めていた。ゴジラが破壊した街の中心に立っているのだと思い、背筋がぞっとしたのことを忘れない。

 涙が口蓋を満たし、溺れそうになった。私は真夜中に目が覚めた。現実と妄想の境界が曖昧になっているのか、横たわる肉体の私が現実であるという意識もなくなり、妄想や夢の方が現実味を帯びてきていた。私の生命を維持している装置の鼓動が聞こえてくる。私は次第に空想のなかに生きるようになっていた。意識が次第に明確になってきているのか、それとも肉体が崩壊していく予兆なのかは分からない。時々目が覚めると、子供の姿で近所の友達が私の枕元に立っていたりする。現実と空想が重なり合ってしまい、どちらが地であって、どちらが重なっている虚像なのかが判断がつかなくなっている。私が夢の中の存在であり、目が覚め、母親に大人になって動けなくなった夢を見たんだよと、泣いている自分が現実なのではないか。小学生くらいの薄桃色のカーディガンを着た少女が私の枕元に立っていた。その少女の顔の輪郭を記憶に重ねると、それは妙子ちゃんだという事を思い出した。私が八つの頃好きになった初恋の女の子だ。頬にキスをした思い出が忘れられない。幾分物憂げな大人びた目をした女の子だった。
「何しているの」
「眠っているんだよ」
「わたしと話しているじゃない。昨日も学校さぼったでしょ」
「学校はもう出てしまったんだよ」
「もう学校には来ないのね」
「そうだよ、もう僕は大人なんだ」
「悲しいな、妙子」
「どうして」
「わたしはずっと小学生なのに」
「もう君も大人だよ、同い年だから」
「だったら抱いてくれない。何十年もわたしはキスしかされていないわ」
 
 妙子ちゃんは怪しげに私を睨んだ。桃色のカーディガンを脱ぐと、性的に興奮した女の狂態で絡んできた。小学生の姿のままなのに、心だけが大人になってしまったのだろう。私は妙子ちゃんに脱がされるままに裸になっていた。私のペニスは屹立していた。小さな口がペニスを咥えている。赤いランドセル。私は小児愛の欲望などなかったが、小学生の妙子に興奮を覚えていた。スカート。妙子は裸になった。すると次第に肉体が艶めきだし、子供の肉づきから大人の女の肉づきへ変貌していく。ソプラノリコーダー。肌を重ねると、成熟した女の肉体がやんわりと触れた。小さな花柄の髪留め。私は微動もできず、妙子を眺めていた。小学生の体躯に女の肉体が具わっている姿は奇妙な興奮を促した。薄桃色のカーディガン。やがて妙子は私の上で腰を振った。私はペニスが熱くなっていくのを感じた。私は妙子のなかに射精した。
 次の瞬間、妙子は消えた。

 二晩に一度は妙子が私の傍にやってきた。私は最近妙子以外の空想を見なくなっていた。目が覚めると、病室のリノリウムの床が日光を受けて輝き、薄汚れた天井に照り返し、一般的に現実という光景が広がっていた。妙子は小学生から次第に成長し、いまでは高校生くらいの年齢になっていた。妙子の変貌を追っていなかったら、私はいまの彼女を妙子だとは分からなかっただろう。
「もう私はいなくなるわ」
と、妙子が呟いた。
「本当。どうして」
 妙子は黙ったまま私を見、辛そうに微笑んだ。
「本当。淋しいけど、もう来ないわ」
「そうか…」
「さようなら、また何処かで会いましょう」
 妙子は消滅した。
「さようなら」
 と、私は告げた。私は消えてしまった妙子の痕跡がまるで残り香のように宙に浮遊しているのを感じた。私は思い出した。妙子が昔に他界した初恋の人だった。私は初めてのキスをしたが、若すぎてセックスまで至っていなかった。その後高校が別になり、やがて疎遠になった。訃報を聞いた時、悲しくなった同時に存在すら忘却してしまった。どうして此処に現れたのだろう。今はいつなのだろう、何処にいるのだろう。私は脳髄の中に閉じ込められてしまった囚人なのだ。ここから出ることはできないのだろうか。急に焦燥感が満ち、何も動かない肉体と、現実か  幻覚か判別できない光景を呪った。
 
 美奈ちゃんのへその緒を盗んだ福島の女は誰なのだろう。私は出生所とへその緒を亡くしてしまって気が狂った美奈ちゃんのことを想った。私は大きな海原を目の前にしてオープンカーを止めていた。日本海を見るのは初めてだった。女が失くしたスカーフのことを悔しがっていた。風が吹きすさんでいた。海がヒステリックに波立っていた。私が垂れ流した鼻を拭いてくれた母、失踪した母を想いました。へその緒を失くした美奈ちゃんを余り知らないけれど、母との繋がりが何であるかは神秘的なものであり、その証拠を赤の他人に盗まれる気持ち悪さを想うと、気が狂う美奈ちゃんの弱さを私にも発見できる気がしました。海は岩場を砕き、屹立する山もやがて海に飲み込まれてしまうのでしょう。海岸線には大きな岩が点在し、荒れすさぶ海の音を聞いているうち、その岸壁から海原を眺めたいと、足が向いて歩き出しました。女は「危ないから変なところ登らないでよ」と叫んでいます。思い出しました。女は私の妻でした。東北にある妻の実家へ向かう道の途中だったのです。
 空はモノクロームの映像のようでした。散りじりに、速く、雲が流れていました。崖を昇ると、青い空が破かれた雲の間に顔を出し、波が一瞬きらりと輝きました。瞬間、私の足場は脆くも崩れ、はっと宙に舞いました。 


 頭蓋骨が割れました。目を開けると白い岩が真っ赤に染まっていました。


 (2002年作)

 

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September 04, 2006

サンテミリオンの罠

20060903132102
日曜日の青空の下、エノテカでサンテミリオンを試飲した。4500円程を支払うと、2001Chカノン・ラ・ガフリエール、2001Chラ・クースポード、2001Chキノ・ランクロ、2003Chモンブスケ、2003Chヴァランドローという錚々たる銘柄を愉しめるという。店先の黒板では十日前から告知していたので、大勢集まるだろうとわたしは予約までしていた。しかし予想は外れ、私の他には、四十くらいの女性とその連れの黒眼鏡をかけたアメリカ人、ソムリエ志望風の青年(二十代後半?)の二組だけだった。

屋外の席に着く。テースティングシートとペンを渡され、ブラインドでお試しくださいと言う。五つのグラスが目の前に置かれた。えっと、私は動揺したが、もはや引き返せない。テースティングと言っても、なんだか薀蓄の説明があって美味いワインが飲める程度に想定していたので、まさに予想外だった。

縦軸に1番から5番あり、横軸に色、ブーケ、フレーバー、そして総合という空欄があった。まさに空欄、選択するわけでもない。横を見るとソムリエ志望の青年がグラスを傾けてワインの足(液の粘度)をみたり、ナプキンをあてて色味を見たりしている。また向こうでは、小太り眼鏡のアメリカ人がひっきりなしにノートにメモをしている。うーんと焦る。大体、ワインの色なんてガーネットしか言葉が浮かばない。このメモは提出したりするのだろうか…。携帯のネットで調べようと思うが、目の前のワインの答えなんて出てるわけもない。はやくも降参したくなり、安く高級な酒を飲んでみようなどいう目論見が悪かったのだと後悔する。しかし目の前には解答用紙、そして5つのワイン。

まるで勉強しないで模試を受けに来てしまった時の心境である。十年数年も経ってこういう心境になるとは思ってもみなかった。ソムリエ志望の回答をカンニングしたいと思う。そういう時こそ、感覚も脳も総動員される。結果は別として…。

上に書いた順に飲んでみた。1番目が結構いい酸味、しっかりとして美味しい。2番目は酸味が軽く、ちょっと平板な感じ。3番目は酸味がよく、タンニンもある。バランスもいいし、深い赤が美しい。4番目は乳製品ぽい味がする。他とは違う独特な味。ミッシェルロラン(有名なワイン研究&醸造家)のワインに似ているかな??5番目は酸味がある。でもしっかりはしていない。悪くはないけど???

結論は、1,3、5が一万円台の高級ワイン、2が一番安い中級クラス、4がシンデレラワインと言われる5万円のヴァランドローか、と私思った。1銘柄しか飲んだことないので、乱暴な判断である。そしてそれ以上は回答できない。ギブアップである。

「答えをくださいませんか」
と別の店員さんに言うと、
「さきほどのお渡しした紙の順です」
と言う。
絶句。意味不明だった。さっき言われたブラインドはどういうことか。
「カジュアルなもので、特にそれ以上の回答はご用意していません」
と、明るい笑顔が告げた。

そのサンテミリオンたちは、とても良いワインだった。

<tokyotaros>

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