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October 2006

October 14, 2006

短編小説:『花』

Uk2006apr_236
 雨後の照りつける陽射しのなか、私、凍ってしまう気がしたわとわたしの女がつぶやいた。暑い夏の陽射しと蒸風呂のような湿気のなかで凍るなどと口走る女が正常だとは思えなかった。が、結晶のように固まった光線が紫陽花の葉に照り返す光景には、普段の感覚を超越させる奇妙なものがあるかもしれない。それでもわたしには依然として暑い、夏の午後だった。雨後の雑草の匂いにのぼせてしまうわたしには、死ぬまでその女の感覚は分からないだろう。
 此処に逃げてきて三ヶ月になる。とうとう気が狂う段になったのかも知れない。横に寝ている女の首筋から汗がじわり吹き出し、わたしの白いシャツに染みた。豚草の匂い。ベトナム人はあれを食うのだそうだ。湿気と汗。化粧気もなくなった女の横顔を見ていると、初々しさなど微塵もない。平凡な日常がまた満潮のように戻ってくる。太陽がわたしの頬に照りつける。女は自分の境遇を悔いている様子もなく、わたしに抱きついている。半年前はただの他人であり、法的にわたしは犯罪者であり、彼女が被害者であるなどと想像もできない。一匹の蛙が草むらから顔を出した。目を閉じると、世界が大きな鍋のなかで煮えたぎっている幻像が現れた。そこに形もなく、場所もなく、ひたすら煮えたぎっている幻だった。
「雨やんだのね」
「ああ、やんだよ」
「もう夏ね」
「やっと夏だ」
 わたしの女が立ちあがった。軽く伸びをし、縁側を降りて庭に出た。裸足で雨後の雑草のなかを女は歩いている。足が土を跳ねあげ、泥が舞い、女の顔に点々と黒い跡が残る。わたしは女が逃げない理由が分からなかった。わたしは相当に疲れていた。わたしは逃げている自分を思うだけで吐き気を催す位、精神が弱っている。別に女が警察を呼びに行っても、それを阻止しよういう意志などなかった。
 わたしは、ぼんやりと女が泥と戯れるのを眺めていた。

 あれは凍てつくような冬の晩だった。
 1987年製のカローラで、わたしは多摩丘陵にある郊外住宅地を走っていた。冬一番の寒波が、シベリア高気圧とともにやってきたとラジオが喋る。天気予報を聴きながら、わたしはある男を殺そうと、死に物狂いで男の家を探していた。寒く、窓を開けると、耳をちぎりそうな風が吹いている。男とわたしは一度の面識もなかった。しかしわたしは殺す者であり、男は殺される者だった。一生涯に一度の逢い引きのようなものだ。
 閑散とした集合団地の群れを抜けると、住宅街に入った。誰も人が歩いていない冬の夕暮れだ。唯、一匹の犬が歩いているのを見た。老いぼれた犬は飼い主に捨てられたのだろう、人を憎む眼をしてわたしを睨む。
 迷った挙げ句、ようやく家を見つけた。伊勢丹の包装紙でくるんだ箱を小脇にお歳暮の配達を偽装し、わたしは呼び鈴を鳴らした。腰下の小袋に布で巻いたナタを隠し、玄関に近づく人の匂いをびりびりと感じていた。ストップウオッチを押す。もはや、わたしの心は白かった。
「**さん、お届け物です」 
「はい、ごくろうさま」
 箱を両手で**氏が受け取った瞬間、わたしは布を巻いたままのナタで大振りに左頭部を殴打した。男は殴られるままに玄関横の壁に頭を打ち、壁のモルタルが少々剥落する。わたしは、玄関の戸を閉め、卒倒してぴくぴく虫のように痙攣している**氏を玄関先にうつぶせにし、腰の袋から取り出したアイスピックを後頭部から延髄に向けて刺した。**氏の絶命。とその時、二階に足音がした。わたしは、直ぐ二階に駆けあがり、足音のした部屋のドアを開けた。すると高校生位の女の子(男の娘だろう)が恐怖の余り声が出なくなり、ウガウガと喉を鳴らして座り込んでいた。わたしは時計を見た。ちょうど一分。わたしは取り出した透明のスコッチテープで女の子をぐるぐる巻きにした。髪、顔の皮膚、両手、氷に閉じこめられているかのようだ。もはや抵抗もしない。震えている。二分が経過。わたしは玄関を閉め、自動車のトランクに女の子を押し込めた。バタン、とトランクが閉まる。

 福島県の廃村にある隠れ家で、わたしは女の子を犯した。それから女の子は女になり、毎夜わたしの隣で眠っている。わたしの依頼者は、娘を殺さなかったことを不服に思っているのだろうか、約束の三ヶ月が過ぎても連絡がない。わたしは、ひどく疲れてしまった。不毛の待ち時間と、父親を殺した男と平然と過ごす娘にわたしの神経が参っているのだろうか。凶器は処分したし、ラジオによれば目撃者もない。だがもはや唯一の目撃者を処分する気力がないのだ。青空と入道雲。庭の泥が強烈な陽光に輝いている。
「見て、見て」
「なんだよ」
「ほら、あれ。だって太陽に顔を向けているのが本当なのに。ね、変よ」
 泥塗れの女が白い歯を剥き出しげらげらと笑っている。わたしには何がおかしいのは分からない。唯、急に見た太陽が眩しすぎたのか、女が空を背に切り取られた影絵のように平板な、軽く、重さのない存在になっていた。そして余りにも青い空と余りにも黒い女の向こう側に眼を凝らした。すると陽炎のようにおぼろげながら恐ろしい姿の何物かが立っていた。

 それは巨大な一茎の向日葵が、燦然と太陽を背に輝いている姿だった。

(1997年)

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