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November 2006

November 21, 2006

「意味するもの」を失った記号と、感情的なメディア

メディアという言葉を知らない人はいない。
しかしその意味がなんであるかを理解している人は少ないと思う。

メディアとはなんですかと質問した場合、一般的な社会人だったら、多くは新聞、雑誌、テレビ、ラジオと回答するだろう。そして最近では、インターネットもメディアとしては強くなってきますよねと。メディア=マスコミという構図がいまでも根強くあると思う。そこで私も、そういう意味でメディアという言葉を使ってみる。

そのメディア自体、権力の構造に組み入れられているといわれて久しい。それでも報道の自由をめぐる争いでは、メディアは権力を監視するのであり、自由は保障されるべきだという正論から、国家戦略に同調する放送をNHKですら拒絶する側面がある。

メディアは本当に国民の意思に基づく、意志を表象しているのだろうか。ちょうどそんなことを考えている時、2002年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン氏が「利用可能性に基づく思考」において、人間には「思い出しやすいものほどよく起こっている」と考える癖があると説明したことを、青山学院大学の鈴木教授のコラムで知った。鈴木教授によると、メディアが少年犯罪の増加を訴えるが、1960年以降実際の件数は激減しているのだそうだ。

確かにその当時の方が、ネットも存在していないのだから告発されることも少なかった。蓋し、現在よりもはるかに少年犯罪は多かったのだろう。現在では小さな告発がネットで増幅され、そしてメディア=マスコミに繋がるというパターンが増加している。

最近これをしてはいけないというような、紋切り型の規制が多くなっている。そしてその観点から、いじめ、少年犯罪、飲酒運転のような日常の犯罪が、日本では何よりも大事のように騒がれる。しかし目を中東に向ければ、一日100人以上がテロで殺され、飢餓と貧困で死亡する幼児はアフリカに溢れている。しかしそれらの惨事は忘却される。それはメディアにおける「思い出しやすいもの」でないからに他ならない。

「意味するもの」を失った記号がメディアには散乱している。さいきん話題になった崖に登った野犬を市民が救う美談があった。その犬には91件の里親志願がいるという。しかしその野犬の後ろ側には、殺され、捨てられる数万の犬たちの存在は忘却されている。

「繰り返されるもの」=「思い出しやすいもの」をメディアが増幅し、感情のスパイラルで国民が動いてしまう現状こそ、なによりもそら恐ろしい。

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November 07, 2006

コペンハーゲンから眺める東京、あるいは日本

Sas
11月のはじめ、僕はコペンハーゲンに滞在していた。

はじめて訪れたコペンハーゲンは荒涼とした空港から程近い港町だった。人口も541万人しかなく、また国土も日本の十分の一でしかない。が、この小国は、A・ヤコブセン、H・ベグナー、F・ハンセンと偉大なデザイナーを輩出し、ロイヤルコペンハーゲン、バング&オルフセン、カールスバーグ、レゴ等、世界的に有名な企業が少なくない。
SASロイヤルホテルというアンリ・ヤコブセンがデザインしたホテルに泊まっていたので、そのデザインの良さには感嘆した。華美でなく、洗練というわけではなく、ほっとするようなセンスの良さである。

またデンマークは、かの森鴎外が紹介した『即興詩人』の著者アンデルセンHans Christian Andersenの祖国である。彼は眠ったまま埋められた男の悲話を聞いて恐ろしくなり、以来枕元に自分は死んでいないとメモを置いて眠るほど素朴な男だった。

アンデルセンの逸話は、彼の夢見がちな性格を現していた。11月の頭にマイナス6℃にもなる土地の部屋では、誰もがシンプルな生活を嗜好するのかもしれない。素朴でピュアな空気がコペンハーゲンには満ちていた。
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街を歩いても、パリやロンドンのようなモードはない。一般的なデザイン…特にインテリアの趣味は良いのに、服装は良くも悪くも野暮である。質実のバランスに優れているという言い方できるかもしれない。その趣味の良さにはナチュラルなものであり、マスコミの影響というものではなく、教育の賜物のように思う。折りしも日本では政府主導で教育の話が盛んであるけれども、本来の教育は政府主導ではなく、人々の生活から育まれ、自由な文化教育から生まれるものだろう。知識の正誤に拘泥し、教育委員会が跋扈する日本の教育のなかから、素晴らしいデザイナーなど生まれない。勿論、素晴らしいデザイナーは日本にもいる。しかし彼らは、蓋し日本の自由なサブ・カルチャ=マスコミが育んだ者たちだ。

もはや商業主義的な色彩の強くなってきた日本のサブ・カルチャばかりに頼るのではなく、本来のカルチャを取り戻すために、これからは政府の教育への関与など最小限にするべきだと思う。
何を履修しようがしまいが関係ない。読むこと、書くこと、そして最小限の計算だけができるようにすることが公の教育の基本であり、その他は個々の自由に(つまり学校単位の)委譲するべきだ。

早晩教育において、受験機械=官僚機械を破壊し、もっと自由な個人が醸成される社会になって欲しいと願う。


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