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April 22, 2013

『色彩のない多崎つくると巡礼の年』/余剰な身体をめぐる物語。

Shikisai

村上春樹をめぐる欠落した身体、または余剰な身体をめぐる物語。
『風の歌を訊け』には、欠落した身体の象徴として「小指のない女の子」が現れ、このたびの新作『色彩のない多崎つくると巡礼の年』においては、過剰な身体として「6本指」の逸話が登場する。そのどちらも自然ではなく、奇形である。しかし存在しない小指ではなく、切断できるし、また優性遺伝でもある奇形である。その欠落でない不具に関する物語が、主要なテーマである。たいていの場合は、機能しない段階で親が切除する指である。

その6本の「指」に呼応するように、ちょうど登場人物が、高校時代の時間面にアオ、アカ、シロ、クロ、そして「つくる」の5人。そこに大学時代には「灰田」、三十六歳の現在に「緑川」という別の時間面に登場する2人が現れる。

余剰の指をめぐる認識が、つねに主人公である「つくる」のアイディティを揺さぶる指標となっていく。6本目の指を持った女は、電話帳のような分厚い交響曲をつくるに弾かせ、また哲学者である灰田の父に死の重荷を悟らせたジャズピアニストに、かつて存在したかもしれない6本指のイメージを帯びさせる。

身体の欠落は人の関心を引き寄せる。小指のない女の子しかり。しかし過剰な指は切断される。1979年には欠落を物語り、2013年には過剰を物語る。その過剰が死を考えてばかりいた「つくる」ではなく、「シロ」と確定するのは落ちを晒すようなものだけれども。

過剰な存在とは、小指の女の子の持つセクシーさではなく、ま逆にあるシロの孤独な死であることに、村上春樹の「老い」を想う。


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