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April 2016

April 10, 2016

「情報」と「言葉」の錯誤の果てに


僕自身も深く仕事では関わっているけれども、膨大なデジタル「情報」はその果てに、「死のメディア」になりうる警鐘を鳴らしたい。
 いくらメディアの多様性や未来性を論じたところでも、「情報」と「言葉」とは同じではない。「情報」は「言葉」等を置換したものも含まれるが、「言葉」は生きた人間の発した声、または記録とての文字である。「言葉」は人間が作り出したものであるが、常に生きている。しかし一方「情報」は生きたものではない。「情報」は電子機器の中でも動作するけれども、「言葉」はかつて生きた人たちが産み出した魂のバトンだ。
「情報」は生きていない装置にも宿るが、「言葉」は決して生きている主体の外には存在しない。なぜなら、「火」というものは、「熱さ」を含有する事はない。つまり「火」に触れた主体の経験があってはじめて、「熱さ」が存在し、その「言葉」があるのである。デカルトを援用するならば、「火」の延長には「熱さ」は存在しない。「熱さ」とは生きた魂=主体の痕跡なのである。
 蓋し現在人を惑わす危険な「道具」は主体をイミテーションした存在である。具体的にはSiriのような道具は、あたかもその向こう側に主体がいるような錯覚を産み出すが、それは人間が人形に自己を投影し、反射している影に過ぎない。しかしまるで生きていたり、全能のように錯覚する先には、恐ろしい危険が満ちている。
 世間で言う「ディープ・ラーニング」は、膨大なWEB空間のその先には人間が書いたり、または発した「言葉」が満ちていると思い、それをまとめた「集合知」を参照しているのだと、多分想定しているのだろう。しかしそこには明快なプロトコルが介在し、操作している。結果(世界に平均的な人間は一人も生きていないように)主体のない「道具」が計算した結果に過ぎないのである。しかし人は、「言葉」を主体の示顕であると見なしてしまう。私たちは「生きていない主体」が発する死の深奥から沸き出す声に耳を貸してしまっているのだ。空虚の中に存在する幻聴である。
 「情報」は「言葉」ではないと理解し、あまりにも「道具」が人間の振りをする事態には、慎重でなくてはならない。過信した果てには、「ラジオ」が産み出したファシズム以上の惨禍が引き起こされる芽が潜んでいると思う。人形の吹くラッパに、殺し合いが起きる可能性があるからだ。
「生」は記録できない。また至極便利なものでもない。日々一回性のなかに、私たちは存在しているのだという、本質を見失う事こそ恐ろしい。

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